きまぐれログ #2: なつやすみ

2020/08/10 - 2020/08/16 の一週間を振り返る。

随想

夏休みを満喫している。 どこかの学部に再入学しないのだとしたら、学部生としては、最後のやつを。

具体的には何をしているかと言うと、いつもより早く起きて散歩をしている。 本を読んでいる。 いつもより音楽をゆっくりと聞いている。 適当に一眼レフを抱えて、うちの近くを流れる神田川沿いで、つまらない写真を撮ることもある(無論護岸整備が進んでいるから、ほとりには立てない。上から眺めるだけ)。 あるいは、こういうくだらない思索に耽ることで、心のゆとりを噛み締めている。 多分いままでの人生の中で、もっともおおらかな心持ちで、この八月を消費しているのである。 もっとも、ここで挙げたどれもが夏でなくてもできることだから、ほんとうの意味で僕は夏を満喫してはいない。 東京の夏のむせかえるような空気の中で、休みを満喫している、というのが事実にぴしゃりと合った表現だと思う。

もちろん、会社での仕事においても、個人としての仕事においても、学業においても、定常的にやるべきことを抱えた状態が続いている。 だから一日中をこうした休息に充てているわけではない。 僕の夏休みは、朝方口に軽くものを含みながらインスタントのコーヒーを用意するまでの時間と、夕食として白いご飯と納豆を食した後の時間にある(この食生活はもう少し丁寧になってほしいものだが)。

ところで、これまでの夏休みと、今年の夏休みを比べてみると、今年のはどうやら異質である。 例えば高校の頃は、たいてい部活の練習に明け暮れていた。 大学三年までの夏休みは、基本常にやるべきことに追われていた。 そしてこれらの夏休みはともに、どこかストレスに溢れていた。 なのに、それらに比して今年のそれは、がらりと変わって穏やかなのである。 ここに僕は己の大きな変化を感じる。

そこでちょうど眠れなかった昨晩、この自分の変化の根源が何であるのか、考えてみた。 結果、その根源は、自分がおよそ先月くらいに社会に対して抱いた「案外丁寧でなく、案外大きい」という感覚に起因する変化にあるのではないか、という結論に至った。 もちろんこういう印象を社会という大きな塊に対して抱く、というのは些か乱暴であるのは理解している。 しかし大事なのは「案外」という言葉を散りばめてあるところである。 この言葉は、あくまで僕のもともとの感覚を基準として、そこからの差異について語る一文であると理解されたい。

まず、案外丁寧でない、ということについて。

大学の級友の多くは、言葉を丁寧に選び、定義が互いに共通していることを確認する。 問題を明確に言語化する。 ゴールのある議論をする。 問題が明確に言語化されない状態で進む、漠然とした議論というものを避ける。 十分に多くの文脈を記憶するだけの記憶力もある。 それでいて、正確性を期すために、文脈への理解をすり合わせたり、過去の記録(会話のログだとか、文献だとか)を確認することを厭わない。

僕はこれを結構最近まで当たり前の姿勢だと思っていた。 しかしどうやら、これが実戦できるのは「優秀」の現れらしいと、色んな人間に言われて気がついた。 僕はこの丁寧さ —— 少しこれらを「丁寧」という一語でまとめるのには飛躍があるけれども、ここはご容赦願いたい —— を、当たり前のものと見ていたから、これが常でないと分かれば、成程、案外丁寧でないのだな、と思うわけである。 僕は自分が愚かだと思っていて、自分が頑張ったらできるようなことは皆できて当たり前だと思う節があるのだが、これもその一つだった。

次に、案外大きい、ということについて。

僕はこれまで、一人でも天才がいれば組織はうまくいくと考えていた。 例えばハンドボールの試合は、キーパーが一点も相手に点を決めさせなければ、少なくとも負けることはない。 天才が一人いればいい。 そして僕のような凡人でも、彼ら天才に近いはたらきをできる存在にはなれる、と信じていた。 だから部活にも熱を入れた(残念ながら僕は全くと言っていいほど優秀ではなかったが)。 何かがうまく行かなかった問には、自分を責めた。 僕がこれまで思い詰めることが多かったのは、何人かの偉大な天才たちに対する強い憧れが生んだ、この手の脅迫的な感情によるものだったと思う。

しかし最近立て続けに、人ひとりが己の才覚を以て到達できる領域の広さ —— いわば「才覚の半径」とも呼べるもの —— は、天才のそれも含めて、誰のそれも非常にちっぽけである、という事実を支えるような出来事をいくつか体験した。 これについてはまた今度書く。 その結果優秀な人間が一人いれば、という類の考えがぬうっと立ち消えてしまい、同時に社会において個人の影響というのは僕が想像していたより小さいのかもという感慨に、裏を返せば社会というのは案外大きいのかもという感慨に、至ったわけである。 これまで僕は組織論とかいうものを心底つまらないと思っていたが、先達がその手のものを盛んに議論してきたのは、およそこれと近い感慨に基づくものなのかもしれない。

ここまで述べたのような、社会に対する「案外丁寧でなく、案外大きい」という考えを得たことは、僕が完璧主義をやめるのに足るだけの衝撃だった。 もちろん完璧主義をやめるというのは、僕が丁寧を捨てるとか、金輪際努力するのをやめるとか、そういう話ではない。 相手が丁寧であるという前提に立つのをやめ、丁寧でないことを受容するようにし、全てをやろうとするのをやめた、という話である。

まず相手の言葉が(先に述べたような意味で)丁寧である、 という前提を捨てた。 そして前提を捨てた分だけ、つとめて僕が意図して前提となる認識を揃える努力を、自分でするようにした。 時には会話によって、時には「空気を読む」というこの世で一番嫌いな行為によって。 これらによって、雑な議論へのイライラがとたんに消えた。

そして全てをやろうとするのをやめた。

例えば会社の話で言えば、できるだけ多くのチャンネルに満遍なく目を通そうとすることをやめた。 多くの文脈を頭の中に置こうとすることをやめた。 困っている人を積極的に探すのをやめた(もともとお節介が過ぎたんだと思う。もちろん目に入ったときは出来ることをする)。 余暇の時間を削って仕事をするのをやめた。 その代わり僕がすべきことに集中して、それらへの責任感をいつもより強めに持つことにした。 スタートアップにおいては完璧な分業なんてありえないと思っているけれど、できる限り、意図をもって。

個人的な話で言えば、何かできないことがある自分を責めないように意識を変えた。 全ての人にいい顔をしておこう、という考え方を捨てた(これはもとからあってないようなものだけれど)。 その代わりに、自分がやりたいと思うことに関しては、思う存分やってみることにした。 何かをやめればやめた分だけ、そういう時間は生まれてくれる。 そして自分ができないことをできる人に対して、これまでより強い尊敬の気持ちを持つことにした。

これら2つの変化(他人に対して丁寧さを求めなくなった、自分が全てやろうという気持ちを捨てた)というのは、ともに「他者との力学は制御できないものと知り、自己という存在だけを制御しようとする」心の営みであるとまとめられる1

……と、ここでは元々は今年の夏休みは去年までのそれと異質であるように思う、というところを思考の起点として、その異質さは「案外丁寧でなく、案外大きい」という気付きからきた脱完璧主義の結果なのだろう、という考察を述べた。

ちなみに、これをわざわざ文章として書き起こしているのは、この前書いたように、自分の向かっている方向に関する漠然とした不安を取り払うためである。 昔ならこんなことわざわざ言語化しなかったのだけれど、結構これのおかげで、自分の過ちや過激な思想に気づくことができている。 愚かな自分が少しは改善できている気がする。

しかしまあ、いつだって現実というのは邪悪である。 つぎはぎまみれの自分を省みて、己の愚かさと向き合い、自己矛盾を認め、少しずつ駄目なところを取り外して、新しいものをつけて、……という、めんどうな営みを、自分という存在を動かし続けながらやれ、という難題を押し付けてくるのだから。 ハウルの動く城みたいな自分を運用していけ、というひどい仕事を押し付けてくるのだから。 自分という人間を、いくつかの公理から出発した何かとしてきれいに構成できたらいいのに、と一月に一度くらいは、思ってしまう。

まあ、長々と書いてみたけれど、言いたかったことは、なんか余計な肩の力が抜けて、初めて夏休みを楽しいものと感じられている、ということだけ。 自省というのは思考のキャッシュを作る作業でしかなく、前進はそんなにない作業なのに、キリなく続けられるものだから、まだ残っている大学の課題や原稿から逃避するには丁度いい材料である。

小説

なんか沢山読んだ。多分 7, 8 冊くらい。本の虫ならもっと読んでいてもおかしくないけど、僕は至って普通の人間なので、この程度読むと「沢山読んだ」という気持ちになれる。

その中だと『TSUGUMI』(吉本ばなな)というのが一番好きだった。 これは、生とか死とかは難しくてまだよく分からないけれど、なんというか、いい生の輝きみたいなものが、すごくきれいに描写されている気がしたから。 あと風景が少し懐かしい気がした。雰囲気はきっとぜんぜん違う話だけれど、地元を少しだけ思い出すようなお話だった。 ところでこの作品には以下のような一節がある。これは今の僕には耳が痛い(本は目で読んでいるのだから、目が痛い、というほうが正しい?)一節である。

「だって、いつでも実のないことをぐにゃぐにゃ考えてるだろう。気弱なくせにお高くとまっているいるところはお前そっくりだけど、お前だってあそこまで弱くないよな。何か、現実にもろそうだよなあ、あいつ」

日本語ラップ

今週は専ら SKRYU というラッパーの『SCREEN SAVER』という EP を聞いていた。 EP 全体を通してサウンドが軽快で、朝に聞くと活力が出る。リリックも身近な感じがする。とても好きな一作である。 公式だとこういう動画があるみたいだが、どの曲も細切れになっているので、ぜひ Apple Music あたりで探して EP を頭から最後まで聴いてみてほしい。

あとは夏なので Zeebra の昔の曲を聴いてパーティーピーポー気分を味わっていた。自分とは違う人生を楽曲を通して妄想できるのも面白い。例えばお昼休みにはよく以下の『真っ昼間』とかを聴いてた。

最近出た曲だと、漢 a.k.a. GAMI feat. RYKEY の『Period.』とかも何度か聞いた。 RYKEY の Hook は正直まだあまり飲み込めていない(率直に言うと、あまりドープだと思えない)が、漢さんの頭韻がとてもきれいで好き。

あとは『Bayside Dream feat. T-Pablow, Tiji Jojo & Benjazzy』という曲も、最近 MV が出ていたので、何度か聞いた。 あと僕は BAD HOP の曲をあまり聴かないんだけど、Benjazzy のラップは好きなので、Benjazzy さんが参加している曲だけは聴く。 今回も Benjazzy が超かっこよかった。あとどうやら僕はオートチューンがあまり得意ではないらしい。

  1. なお、漫画『ハイキュー!!』では、赤葦という人物の自省として、ここで述べたことと本質的に同じような話が語られる(「タスクフォーカス」という言葉と共に)。結構僕はこういうところからも影響を受けているのかもしれない。 

Written on August 16, 2020