きまぐれログ #1: 自省を言語化する、ということ

2020/08/03 - 2020/08/10 の一週間を振り返る。

随想

最近は自省を言語化する、という営みの大切さを感じている。よく言語化されていない記憶は、それが成功体験であれ、失敗の苦い思い出であれ、認知資源を少しずつ奪っていくように感じるからである。 僕が「一人反省会」をしてしまうタイプの人間だからかもしれない。 いま『テスト駆動開発』(Kent Beck 著/和田卓人訳)という書籍 —— 恥ずかしながら、最近は忙しさにかまけて沢山の技術負債を生んでしまっているから、最近改めて読んだ —— のまえがきには、 「テスト駆動開発は、プログラミング中の不安をコントロールする手法だ。」 という記述が登場する。この表現を借りるなら、自省の言語化というのも、不安をコントロールするための方法なのだろうと思う。自分の関心から、不安を取り除く方法。関心の分離(Separation of Concerns)を、不安に対して適用する、というもの1

それに、よく言語化されたことは、頭や体のキャッシュに載せやすくなる。キャッシュに乗れば、次同じ感情に遭遇した時、次同じ問題に遭遇した時、驚くべき早さでそれに対応ができるようになる。そうすると次の行動にゆとりができる。直感が冴える。なんだかこう並べると、怪しい薬物を勧めるときの煽り文句のようだが(僕は HIP-HOP が好きだがドラッグは嫌いである)、これは自分が尊敬する何人かの人物を見て実感したことである。 僕は凡人なので、人より素早く何かをやれるだけの知識も技術もない。実績もない。そしてそういう人間のすべきことは、今できることのクオリティを上げ、そして今できないことを着実にできることにすることだ、と思っている。こういう意図的な努力によって。

ところで、自省の言語化というプロセスの中で第三者の目を意識するかどうかは、言語化という営みの「質」を決める、とても大きなファクタである気がしている2。 これは人に見られる前提のものを書いていると、ふと「ああ、そういえば昔こういうことを書いたが、今書こうとしていることはそれと矛盾していないだろうか」という気持ちになることが多いからである。そして自己矛盾と向き合うこと、過去・あるいは今の過ちを特定し、自分の思考を理想に近づけていくこと、というのは凝り固まった人間にならないために大切だと考えているから、である。そしてその一方、後の自分が読むためだけのものを書いている時にはこれら一連の思考が発生しないし、とりわけ自己矛盾というのに向き合う機会も生まれないので、これでは言語化する価値というのが下がってしまうように感じるからである。自己矛盾と向き合う機会を意図的に作れないと、大量の自己矛盾を抱えた歪な存在になってしまうのではないか、という漠然とした不安も生まれるだろう3

もっとも、人の思想なんて朝令暮改なものだと思うから、僕は自己矛盾を持つこと自体に一切の嫌悪感は持っていない。自己矛盾なしで生きられるとも思っていない。 ただ辻褄を合わせる生き方、自分の間違いを認められない生き方というのが、嫌いなだけである。 自己矛盾を見つけたときに辻褄を合わせる、というのは心底かっこうの悪いことだ。 辻褄をあわせていこうとすると、思考はどんどん窮屈になっていくし、何よりその末に得られる自分は不格好だからである。一年前の僕を思い出してはそう思う。過ちや弱さを認められる自分でありたい。

……と、このような思考をした結果、一旦定期的に書いていた個人的な日記(日記と呼べるシロモノに至らないことも多い)を、しばらくは外に見えるところに置いてみることにする。僕はものを書くという操作にあまり向いていないようだから、毎週かならず書く、という制約は設けないことにするけれども。 もちろんこれらの議論は、「自分という存在を注意深く観察すると、自分にはどうやらこういう性質があるようである」という話であり、人間なら誰しもこうである、という話ではない。が、僕と似た人には少しは役に立つかもしれない。

なお、こうやって自省をして、思考法を検討して、佳い人生の生き方を模索する価値とはなんだろうと考えたことがある。 これに関して僕は、少なくとも模索することの自然さというのは、見いだせている。やれ linter はこれがベストだとか、やれ今は DevSecOps だとか、プログラマが仕事の道具や仕事に関する思考様式を少しずつ・意識的な学習により変化させていくのと同じくらい、自分の人生を生きるにあたって必要な道具である自分を意図的な学習により変えていくのは自然なことである、と感じるのである。 よいコードを書くことと違って、よく生きることというのの価値がどれほどのものなのかは、未だに分からないけれども。

小説

今週は少し思うところがあって、江國香織さんの小説を久々に読み返した。うち最後の一つは短編集だけれど。

  • 『冷静と情熱のあいだ Rosso』(江國香織)
  • 『真昼なのに昏い部屋』(江國香織)
  • 『号泣する準備はできていた』(江國香織)

このうち上2つの物語は、(悪く言えば)およそ浮気や不倫に関するものといってもよく、最後の短編集にもその手の話題の短編が含まれている。なのでこのラインナップを見て、「どうもこの記事の筆者はそういうことが好きらしい」と思われやしないか、との心配もある。しかし最近はこう、過去の思い出とどう付き合うべきか、というのは厄介な問題であるように思っていて、これらの小説からはそのヒントが得たかった。あとは人と人との距離感についてのヒントも欲しかった。

日本語ラップ

最近は AK-69 の新しいアルバム『LIVE:live』をよく聴いている。あまり歌モノのラップは好きではないのだが、このアルバムは結構好き。 収録曲の中だと ¥ellow Bucks が客演に入っている『Bussin’』が最も好きで、これは彼の楽曲『ヤングトウカイテイオー』の「出会いは 2007 Ding Ding Dong」というワンフレーズを聴いてから聴くと心に来るものがあるから。

Bussin’ という言葉の響きにつられて、SEEDA 達の曲『BUSSIN』も聴きたくなることが多かったので、よく聴いていた。 この曲、リリックはさておき、フックの SEEDA の狂気がいい。 そして狂気は慢心に効く。

リリースは少し前になるが、Creepy Nuts × 菅田将暉の『サントラ』も、朝の散歩道で度々聴く。 #cnann0 や #菅田将暉ANN もよく聴いているので、この楽曲のことは心から楽しみにしていた。 予想よりも更によく三人のよさが絡まりあっていて、これがプロの仕事というやつなのだなあ、と思った。 リリックも、トラックも、声も、どんぴしゃり。

あとは P 様の EP 『The Sofakingdom』。 アメコミからくるバックグラウンドと、PUNPEE っぽいサウンド、PUNPEE っぽいラップが心地よいバランスで配合されている感じがする。 テクニカルなサウンドから始まり、次第にノスタルジックな雰囲気が醸成され、最終的にはあたたかな余韻を残してくれる。 特に『Operation : Doomsday Love』4で地球滅亡という、まさにアメコミ・SF チックな世界観にリスナーを没入させた後、 そこから弟の 5lack との一曲『Wonder Wall feat. 5lack』に移る流れは、圧巻である。 ……と、まあ、この EP は完成度が高すぎる、と思った。勿論これは称賛である。 僕は音楽については素人だから、難しいことはわからないけれど、とにかくいい。 収録曲のうち、『夢追人』は YouTube に MV があるので、よかったら聴いてみてほしい。

  1. こういう不安の分離という考え方は、情報セキュリティに関する諸々にも適用できるものだと思っている。また今度考えがまとまったら書く。 

  2. もっとも質というのは、簡単に定義できるものではないと思う。なので括弧で囲って誤魔化していることに注意されたい。 

  3. つまり自分以外の誰の目も届かない場所で自省を言語化していくこと —— いわば独り言として、自省をすること —— において求められるのは、徹頭徹尾その時・その瞬間の自分の客観視である一方、第三者の目がある中でのその営みは、それに加えて過去の自己との矛盾に嫌でも向き合う必要があるように思うのである。 

  4. ところでこの曲の「ベッド色に二人で擬態して」っていうフレーズは、あまりに素敵だと思った。無論前後の文脈ありきでこのフレーズが映える訳なので、一度聴いてみてほしい。 

Written on August 10, 2020